新世界という地はどんな歴史をたどって来た街なのか、というお話

新世界。通天閣、串カツ、大阪Bグルメ、じゃんじゃん横丁など、今の新世界の街になるには幾つかの困難な時代があった地なのです。

このブログ記事では、そもそも新世界ってなんなのか?よくよく考えたら、なかなか珍しい地名だな、と思われる方も多いのではないでしょうか。

新世界の歴史についてご紹介して参りたいと思います。

 

田畑広がる地に訪れた転機

現在の新世界は、明治時代まで、畑や荒地などが広がった、いわゆる何もない地でした。

写真はイメージです。

 

そんな地が整備、現在の新世界になる一歩となる転機となったのが、1903年に行われた、第5回内国勧業博覧会という、国内の産業発展を促進する事を目的とした博覧会の開催で、現在の新世界エリアと天王寺公園がある一帯が会場の敷地となりました。

この第5回内国勧業博覧会は530万人も訪れる盛況に終わりました。その後、当時日露戦争が行われていた兼ね合いから、跡地が一時陸軍が使用した後、1909年に敷地の東側が大阪市によって天王寺公園に。西側、現在の新世界エリアは民間、大阪財界が出資して設立された、大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年に大阪の新名所、という意味を込めて「新世界」と名付けられた地が誕生しました。

 

新世界はテーマパークだった?

通天閣内に展示されている当時の様子の写真

大阪土地建物会社が作った新世界は今の新世界とは全く趣のちがう、テーマパークとして開発されました。コンセプトとしては欧米の二大大都市、パリとニューヨークの街並み・通路を模倣し、最新の文化などを取り込む、という日本でもっともハイカラな地だったかもしれません

この際に建設されたのが通天閣です。パリの象徴エッフェル塔を模した現在とは少し違う形の塔でした。

この新世界の中心に作られたのがルナパークという遊園地で、1912年から1923年まで営業されていました。このルナパークは入り口から通天閣までロープウェイで結ばれるなど、かなりユニークな作りであったそうです。当時最先端の遊園地で、いわゆる絶叫系の乗り物からメリーゴーランド、大衆演劇場など、たくさんのアトラクション、イベントが開催させていた事から大変賑わっていたそうです。

新世界の衰退

天王寺や楽天地(千日前)などが開業し、徐々に新世界は衰退していき、1923年にルナパークも閉園となりました。閉園したルナパーク跡地は電車の車庫に転用されるなど、徐々に活気が失われていきました。

1943年には通天閣の間近にあった映画館の火災の延焼により、焼け落ちてしまいました。残った鉄骨部分は第二次世界対戦中だった事もあり、金属回収令により、回収。さらに1945年には新世界一帯が大阪大空襲により、壊滅状態に陥りました。

戦後の混乱期を経て、その後1947年にまずじゃんじゃん横丁が。1956年に現在の通天閣が建設され、新世界が賑わいを取り戻すには至らず、界隈は近隣のあいりん地区の労働者などで賑わい、あらくれ者が集う、労働者の街、すこし怖い街と認知されるようになってしまいました。それは1990年までの長い間続いていきました

衰退期から現在へ

第二次世界対戦後から新世界は長い衰退時期を過ごして来ましたが、1990年代に入り、昭和の名残りを感じられるレトロの街として、新たな観光地として徐々に注目を浴びるようになりました。さらに、多くのドラマや映画の舞台に新世界が選ばれるようになったのも新世界が知られ、観光地化への後押しとなった事は間違いありません。

1990年代から2000年代にかけて日本人観光客が、2010年代に入り外国人観光客がたくさん訪れるようになり、戦後直後の寂れた新世界から一転、多くの飲食店・観光客で賑わう本日の新世界が作り上げられました。

 

1903年に行われた、第5回内国勧業博覧会を契機に開発され、戦後の混乱から本日の大阪の有名観光地になるまでの、100年に及ぶ新世界の歴史を駆け足ではありますが、ご紹介してまいりました。

そんな歴史に思いを馳せながら新世界を巡ってみてはいかがでしょうか。

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