本日のブログは大阪にまつわる書評がテーマです。
先日、書評とまで参りませんが、大阪の成り立ちをテーマとして大阪アースダイバーをご紹介させていただきました。
大阪観光がより楽しくなる事必至な、名著をご紹介
本日ご紹介する本は西加奈子著「通天閣」です。
通天閣の書評に入る前に、舞台となるあいりん地区と新世界について、歴史的背景含め説明します。
西成には「あいりん地区」と呼ばれる地域がある。
新今宮駅の南側、日雇い労働者たちの宿所や職安、飲食店などが集まる地域だ。
今でこそ「あいりん=愛隣」はこの西成の一部のことを指すが、「愛隣的空間」は古代から四天王寺を中心として、今の天王寺・新今宮にまで広がり、今の「あいりん地区」をすっぽりと包摂していた。
「悲田院」などの地名にその史実を刻んでいる。
土地を捨てて逃亡した人。病気の為に村に住めなくなった人。やむに止まれぬ事情で居場所を失った人たちに、何らの詮索をすることもなく受容していた地域は古代に四天王寺を起点に発生した。
中沢新一「大阪アースダイバー」P.163)中沢新一の言葉を借りれば「最後の庇護の場所」ということになる。
ただこの「愛隣的空間」。
文字が与える直感的な印象とは全く異なり、「中途半端な憐憫や同情」は一切撥ね付けられ、拒否され、他者への「依存」や「甘え」は唾棄される。「最後の庇護の場所」で必要なのは「徹底した独立不羈の心構え」だ。
そういう者たちの間にだけ、精神的な紐帯が生じ、危機にあっては愛隣の精神が発露する。
「あいりん地区」は、「近代資本主義化に伴う無産大衆の大量創出」を以って、その成立が語られることが多いが、実はもっと以前から深く広く歴史にその存在を刻んでいた。
日本や欧米で資本主義が根付くずっと前から、「共同体の軛から逃れてきた個人の生き様の模索・新たな共同性の構築」という極めて近現代的なテーマを、古代からこの地域は重層的・実践的に引き受けてきたのである。
これは「東京・山谷」「横浜・寿町」などとは全く来歴が異なる。この史実は、大阪人が矜持を以って世界に発信すべきだと確信している。
こんな「愛隣的空間」で生き続けるために、精神的・肉体的な「兵站」としての役割を果たして来たのが、近代以降に会っては「新世界」であり、そのランドマークが「通天閣」と言えるのではないだろうか?
「消耗・再生」という日常の「無限ループ」の中で、日々生き抜くという覚悟を腹にしっかりと落とし、油断をすればまとわりついてくる虚無感や恐怖心を振り払うためにも、あらゆる欲望を剥き出しで満たしてくれた「新世界」はまさしく「兵站」であり、「祝祭の装置」だった。
21世紀に入り、その色合いはやや薄まりつつあるとはいえ、その原型は明らかに今も残っている。
今も一定の年代以上の大阪人は、「今日はアホになって遊び倒して魂の洗濯をしよう」と「ある種の覚悟」を胸に秘かに仕舞い込んで、「通天閣」を目指す。
そんな歴史を背景に持つ「新世界」の今を描いているのが西加奈子の小説「通天閣」だ。
西加奈子が登場人物を描く筆致は、全く情け容赦がない、筋肉質の文体だ。
「下町人情物語」的な微温的で偽善的な甘ったるさは微塵もない。まるでカカオ99%のチョコレートを食べているような気分にさせられる。少し西加奈子の文体に耳を傾けてみたい。
死にたいと思っている奴はどんな奴だ。
俺以外につまらない人生を歩んでいるのはどんな奴だ。
その顔を拝んでやりたかった。「通天閣」P.216
「店の名前は『サーディン』。意味が分からずアルバイト情報誌で選んでしまった私が阿呆だった。サーディンはいわし、オーナー曰く『パーッといわし(´´´)たろか』という意味だそうだ。そんな意味だと分かっていたら絶対に電話をかけなかったのに。」
「通天閣」P.53
「それにしても、ママの話は、臭かった。ぷんぷん臭った。あんな臭い話で、私の元気が元に戻るなどと思われていたら、本当に迷惑だ。ビリケンさんを撫でる人と一緒だ。こんな胡散臭い顔した、悪いキューピーみたいな銅像を撫でて、幸せが訪れるわけがない。あんな話で、私のこの傷ついた心が、元にも戻るわけがない。まして店に戻るなんて、もってのほかだ。」
「通天閣」P.218
4年間だけ生活を共にした幼女とその継父。
継父は実母と別れて「継父」ではなくなり、同居は解消された。この4年間の記憶は二人の中でそれぞれずっと澱のように沈殿している。
「楽しかった」とか「つらかった」とかいった明確な感情の記憶ではなく、お互いが「相手の存在感」をずっと消せずにいる。ふとした瞬間に同居していたころのひとコマが蘇る。
怠惰に生きてきたわけでもなく、器用に世間を渡ってきたわけでもない。二人とも自分なりに逡巡し、含羞し、煩悶しながら懸命に真面目に生きて20年が過ぎた・・・そして二人はそれぞれの理由で新世界に住み始める・・・
情け容赦なく冷徹な西加奈子の筆致は終始一貫変わらない。ただ、だからこそ、この小説の結末は、「お涙頂戴の人情物語」ではなく、珠玉の「人生の謳歌」として輝き、爽快な読後感を残す。
「独立不羈の愛隣的空間」の「今」を描いた小説として強くお勧めしたい。
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